「椿の花」雑感
 札幌市内北区の百合が原公園の温室で「椿展」が開催中と聞いて見に行ってきました。
 椿は日本が原産で、その花の美しさ、利用価値の高さなどから万葉の昔から、その花は歌に詠まれ、その実から採れる油は整髪料や高級食材として珍重されて、上は貴族から下は庶民に至るまで、人々の暮らしと共にあった馴染みの深い花木でした。
 しかし、この椿の分布は北限が青森県の夏泊半島までで、私たち北海道の庶民にとっては比較的馴染みの薄い花木でもあって、お目にかかるほとんどは室内で鉢植えにされたものが主流です。
 椿の花は事ほど左様に古い歴史を持った花であり、この花にまつわる故事来歴に事欠きませんが、私などは、残念なことに北海道が椿の自生範囲からはずれていること、風流な暮らしなどとは縁遠い生き方をしてきたせいでしょうか?その花の美しさを読んだ万葉歌人たちの歌も、椿の花が持つ妖しい物語も、そのほとんどを知りません。
 このブログの文章を書くに当たって、付け焼刃もその極みですが、ネットで小当たりしたところでは、椿の花はガクの部分が全部つながっているところから散るときは、一度に
「バサッ」と散る様が首が落ちることを連想させて武士には忌み嫌われたこと、また、「落ちる」その様が「落馬」と結びついて、競走馬の馬名には金輪際使用されなかったこと、などをしりました。
 辛うじて、朴念仁の私の頭に浮かんだのは、山本周五郎の原作で映画化された「五弁の椿」に登場する殺人予告としての「花」、そして、往年の名作映画「椿三十郎」における襲撃の合図として使われた椿の「花」程度のものでした。
 百合が原公園の温室には、土曜日と言うこともあったのでしょう、年配のご婦人が多く詰めかけ、豪華な花に感嘆の声がしきりでしたが、このご婦人たちの胸のうちをかすめて通った想いはどんなものであったのでしょう。
 
     <写真をクリックすると大きくして見ることが出来ます>
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北海道の場合、椿の花はほとんど鉢植えで、大きく成長した木に沢山の花を付けた様子を見ることがありません。
 満開の咲き誇った花には圧倒される感があります。
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 花の散り際が武士達に忌み嫌われたそうですが、それ故に艶やかさを水に浮かべて名残を止める風情は、なかなかのものです。
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 白い一重咲きに「侘び助」と言う品種があって、「茶花」として今も愛好されているそうです。
 きっと、千利休などにも愛好されたのでしょう。利休が秀吉の勘気に触れ、詰め腹を切らされたのも、この季節ではなかったでしょうか?
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 いろいろな品種が沢山あった中で、一株だけ変った色合いの花がありました。
 黒味がかった深い色の花で、謎を秘めたような風情で目をひきました。
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# by ebataonnzi | 2010-03-01 11:55
阿修羅と菩薩が同居する川
 あれは、昭和の本当の末期、西暦で言えば1980年代のこれも末期と言った時代だったと思います。
 この頃から日本は長い経済不況に入って行くのですが、それでもまだ当時は高度成長の名残があって、夢が語りやすい時代だったのでしょう。
 あの頃、僕たち50歳に手が届きそうな分別盛りが4、5人揃って、逢えばモンゴルのチェンジスハーンの墓堀に参加してみようとか、何処やらの何某が某国の駐日大使とじっ懇の間柄で、この男とこの某国駐日大使を口説き落とし、恐竜の化石を借り出して大恐竜化石展をやったら面白かろう。
 そんな夢でさえ、めったに見られないような夢の話に花を咲かせたものでした。
 石狩川を筏で下る。そんな話が出たのも、これらの夢の延長線上で語られたものでした。
 筏を浮かべることが可能な最上流から石狩川の河口までの約250kmを3日か4日かけて下り、途中写真を撮ったり、魚を釣ったり、忘れ去られたような河跡湖を覗き、かつての暴れ川の姿を偲ぶのはどうか?夢は次々と膨らんだものでした。
 かつて、石狩川は原始河川そのままの暴れ川で、1893年(明治31年)9月、北海道を横断した低気圧が豪雨をもたらし、誰も見たことも聞いたこともないような大洪水を引き起こしました。
 この洪水による死者112名、空知川の合流点から石狩湾に到る平野部で15万ha が
浸水し、幅40km、延長100kmという巨大な湖を作り出し、その面積は琵琶湖の2倍に当たり、水が引くのに1ヶ月以上も要したと言います。
 しかし、時には凶暴極まりない素顔を見せた石狩川も北海道にとっては、かけがえのない「母なる川」でもありました。
 時代は明治に入り、北海道開拓がいよいよ本格化しますが、人々はこの石狩川づたいに開墾地を拡大し、川が交通路として重要な役割を果たしました。
 1881年(明治14年)樺戸集治監ができ、2千人以上に及ぶ囚人の食料や日用品を運ぶために水路はますます重要になり、石狩から江別、江別から月形の航路を白い大きな外輪船が行き交い、人々を驚かせたそうです。
 北海道にとっての石狩川は、正しく「母なる川」で北海道の発展に無くてはならない存在でした。
 先日、陽気に誘われて石狩川を見に出かけました。暦の上では立春が過ぎて、浅いとは言い春は春、石狩川にも春は来たか?そんな思いもありましたが、川面はまだ厚い氷に閉ざされたままで一面の銀世界が広がっているばかりでした。

   写真をクリックすると大きくして見ることが出来ます。

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春は海からのようです。河口はシバレも解けて、かすかな春の気配がありました。
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一冬を陸(オカ)で過ごすのでしょう。船も寂しそうでした。
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本当の河口から2キロ足らずでしょう、でも、ここは厚い氷と雪に覆われたまま、春はまだ遠い感じです。
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当別町出身で不遇の作家本庄陸男の記念碑が石狩川を見て立っています

 
 
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# by ebataonnzi | 2010-02-21 00:22
戦に敗れた者たちの闘い
 去年の秋、石狩八幡から旧厚田村にかけて写真を撮って歩いていた折に、戊辰戦争で敗れ領地一切を没収された伊達藩の支藩、岩出山藩々主、伊達邦直の主従郎党が入植したとされる「北海道移住の地碑」という記念碑を現石狩市厚田区シップで見つけました。
 戦いに敗れ、領地を没収された末に岩出山藩主従が選んだ道は北海道移住であり、当別の開拓でした。
 この当別開拓については、当別町出身の作家本庄陸男の小説「石狩川」に詳しいのですが、ずいぶん若い時代に読んだ本で記憶が定かでありません。
 石狩のシップで「北海道移住の地碑」を見つけて以来、この石狩からどのようなルートで当別をめざしたものか?常に頭の片隅に抱えた疑問でした。
 先日、思い立って当別町を訪れ、町役場窓口で来意を告げると少しの時間を置いて、少し離れた総合体育館に同居する教育委員会の担当者を紹介してくれました。
 対応は極めて親切丁寧で、様々な資料を示し、必要なものはコピーして渡してくれるという破格の待遇でした。
 疑問点の石狩から当別に到るルートは現在の石狩市八幡町から道道岩見沢石狩線に入り2キロか3キロ進んだ高岡から山手にそれて、現在はゴルフ場になっているその裾野を回って、これも現在の国道527号線に突き当たり、その国道なりに現在の当別町に到るコースをたどったもののようでした。
 当時、石狩から当別に到るルートに道は無く、正に密林を分けて進むような難行で、わずか五里七丁(20.4km)の行程に2日間の日時を要したといいます。
 石狩から当別に到る道路の完成が8月1日、全員揃っての当別移住はその後に行われたのでしょう。
 当別役場からの帰り道、できるだけ元のルートに近い道を走って見ましたが、季節が違うとは言い、最早昔を偲ぶものは何一つありませんでした。

写真をクリックすると大きくして見ることが出来ます。

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岩出山藩主従が入植したとされる記念碑
故郷から持参した穀物の種で作付けをしたが、荒地で一粒の実りも無かったと言う。

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想定されるルートの高岡の丘から当別を望む。茫々たる原野であったことが分る。

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やぶ蚊やアブと戦いながら進んだルートに今は瀟洒な別荘が立ち並ぶ地域がある。
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# by ebataonnzi | 2010-02-11 23:53
ニシンロードに春を探す。
先日旧知のMさんと喫茶店で出会って、雑談の折に、なかなか天候が安定しないという話題になって、「そう言えば、この何年間か『石狩湾低気圧』が発生していないのではないか?」という話題になりました。
「石狩湾低気圧」は、西高東低の冬型気圧配置が緩み、石狩湾周辺に気圧の低い部分ができて小さな渦を作り、これが札幌周辺に時ならぬ大雪をもたらして大規模な交通障害を引き起こしたりする厄介ものでした。
この石狩湾低気圧、様々な障害をもたらし、正しく「天の敵」そのものではありましたが、しかし、これがまた「春の使者」でもあって、この「一荒れ」を超えると季節は確実に春に進路をとり始めたことを実感させる「一荒れ」でもありました。
石狩湾低気圧の発生が1月末から2月初めにかけてで、「大寒」が明ける2月3日前後と一致していました。
暦の上で厳寒期を脱出し、実際の気候もそれを裏付けることになるのが石狩湾低気圧であったわけです。

1月31日は、大寒の最中でしたが晴天の上に気温も高く、有るか無しかの春を探して歩くには絶好の日和で、カメラバックと三脚を車に放り込み、石狩湾低気圧の生まれ故郷である石狩の海を見に出かけました。
石狩は、山にも浜にも、まだ雪はうず高くて、海もどす黒い鉛色、時々陽射しが陰るとたちまち真冬の荒涼たる風景にそのたたずまいを変えます。
 石狩八幡を過ぎ望来を越えて小高い丘の道に出ます。ここからは海が一望の下にあり海の表情が手に取るようにわかります。
 海に潮目があり、陽射しを受けた一角が、かすかにエメラルドグリーンに変わっているのを見つけました。
 石狩の海は、これから初夏にかけて、日毎にエメラルドグリーンを広げ深めて、真夏の紺色の海にその表情を変えてゆきます。
 石狩のエメラルドグリーンは春を呼ぶ色であり、この色を待ってニシンの群れに船を出したヤン衆たちも、戦いに敗れ故郷を追われた元武士たちが、新天地を目指す一時、ここで一冬を過ごしたときも、待ち焦がれたのは、この「エメラルドグリーン」の海のいろだったような気がします。
 石狩湾に生き、石狩の浜辺を出発の基地とした者たちも、いや、すべての生き物たちにとても海を染めたエメラルドグリーンは希望の色であったはずです。
 そして、今もまた…

    写真をクリックすると大きくして見ることが出来ます。
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   望来の街と浜は雪に埋もれたまま。


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   ニシンを積んだ船が濃昼(ごきびる)港に帰ってきた。


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   獲れたてニシンは母さんたちの手で数の子と白子に選別される。


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    傷んだ網をつくろい、次の出漁に備える。









  
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# by ebataonnzi | 2010-02-01 16:26
心に灯す「灯り」

少し時間がかかる夜汽車の帰り道、あるいは仕事で出かけたその先で日が暮れて、車を運転して帰る道すがら、漁り火のような遠い集落の灯りが見えたり、すでに漆黒の闇に塗り込められた平原に一つだけポツンと灯る農家の灯りに出会ったりすることがあります。
こんな情景に出会うと、不意に少年時代を過ごした故郷のこと、すでに鬼籍に入った祖母や母のことが浮かび、一時心が少年に戻り、想いが千里を駆けて故郷へ帰ることがあります。
私たちが「灯り」に対して持っている様々な想いは、理屈や何かではない素直な気持ちで「祈り」の心がセットになっていて、信仰などとは無関係に神や仏のような「絶対的」なものを心の中に思い出させる力を持っているような気がします。
遙か遠くにポツンと見えた農家の灯りの下では、今正にどのような会話が交わされ、その相手は誰と誰で、笑ったのか?怒ったのか?
灯りは、それら喜怒哀楽の総てを包み込んで、漆黒の闇を照らし、人々の暮らしを有らしめ、許し、癒し、勇気を与えて、今日から明日への架け橋となり「道しるべ」となって人々を導いているもののようです。
たった1年か2年ほど前までは、地主の趣味のようだった畑に忽然と高層の大型マンションが出現し、程なく、それぞれの窓にそれぞれの「灯り」が灯るようになりました。
平原の漆黒の闇を照らした農家の灯りに神が宿ったように、このマンションの窓に神の光を探します。
窓はネオンの輝きと無機質な白い街路灯の光で神の光を隠し、窓の中の会話を密閉します。
でも、ほら目を凝らし、耳を澄ませば、それぞれの窓から、それぞれの会話が空耳のように聞こえてきそうです。
厳寒の星のない空に。

画像をクリックすると大きくして見ることができます
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# by ebataonnzi | 2010-01-23 23:56