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VAYA CON DIOS
 素人の浅知恵にお付き合いいただきたいのですが、北海道の現代史を色どる主役は、ニシン漁と炭鉱の盛衰が総てで、その光と影を今以て様々なところで見ることが出来ます。
 北海道にとってのニシン漁は、北海道がまだ蝦夷と呼ばれていた時代からの、おそらく最初の産業であり、そして最大の産業でした。
 現在の檜山管内江差町を基点に日本海沿岸を北上するニシロードは苫前郡初山別村の少し北くらいまででしょうか?距離にしておよそ500キロ、この間にニシン漁の栄華を偲ばせる「ニシン御殿」の類はまだまだ数多く残されている一方、これら御殿を中心に繰り広げられた網元とヤン衆たちの暮らし、そして、暮らしの中では付きものの男と女の物語は枚挙に暇がありません。
 しかし、昭和1940年代末頃から、ぱたりとニシンが姿を消し、賑わった番屋からも集落からも人々が消え、名残を止めるのは、ニシン御殿や番屋が観光資源として昔を今に伝えていることはご承知のとおりです。
 この観光資源、何も本州からの観光客ばかりではなく、北海道で暮らす私たちにとっても往時を偲ぶ貴重な文化遺産ですが、これらが「光」の部分であるとすれば、「陰」の部分は積丹海岸などで時々見受ける荒涼として人っ子一人見当たらない海岸に突然立派な石垣で出来た構築物の跡を発見することがあります。
 まるで要塞か城跡の一部のようで、かつて栄華を極めたであろう漁場に思いを馳せることがあります。
 それにしても、ニシン漁が衰退期に入った1940年代末期から数えてざと60年余り、このような漁場で文字通り体を張って海と闘った人々で未だ健在で居られる方々も決して少なくはないのだろうと考えることがあります。
 先日カメラを持って、石狩市厚田区望来(もうらい)の海岸を歩いてみました。
 この望来から古潭(こたん)厚田と今も残る漁港は、かつてニシンで沸きかえった港ですが、望来の港からわずかに石狩川河口に寄ったところに無煙浜と言うところがあり、今も取り壊されずに放置された廃屋が5,6棟あります。
 旧街道なのでしょうか?望来と石狩八幡を結ぶ道路から浜辺に出て行く曲がり角に1棟の廃屋があり、破れ放題破れたガラス窓から中を覗いてドキッとする情景に出会いました。
 放置されてかなりの年数になるのでしょう、屋根もカベも破れ、内部の障子も襖も千切れちぎれでしたが、どうしたことか!今になっても鮮やかな朱色を残す神棚が南の方角に向ってニシンの大漁と家内の安全を守っているかのようなものを発見しました。理屈なしに胸に迫る光景でした。
 かつて、ここで暮らした方々に如何なる事情があったものか知りません。もちろん、ここから何処に参られたかも知りません。そして、今は廃屋になったその他の家々の住人も同じですが、何処の空の下でどんな暮らしをされていることか?
 この浜は「無煙浜」と言う地名で、山側は小高い丘になっていて、かつての集落が一望の下にあります。
 仁徳天皇の「カマドの煙」の故事ではありませんが、この浜はカマドの煙さえも拒んだのでしょうか?
 人々が消え、取り残された家と忘れられた神々、何とも複雑な心境でした。
 それにしても、やっぱり、あの神様だけは何とかならなかったものか!
 ここを立ち去った何処かの見知らぬ人々に VAYA CON DIOS!

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 訪ねたのは12月に入って間もないある日、厚い雲が北から南方面にかなり早いスピードで流れ、海は、黒い海面を大きくうねらせて、不機嫌でした。
 かつては、海水浴で賑わい、キャンプ場などもあったはずですが、今では人の姿もなく、この日はカモメも姿を見せませんでした。
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 望来から石狩八幡を結ぶ旧街道から浜に向う曲がり角にある廃屋です。今でこそ屋根は剥がれ、カベも落ちかけて窓のガラスは破れ放題ですが、良く見れば、往時はそれなりの家屋で、それなりのお方の住居であったことが窺われます。
 何で、どのような思いで、ここを立ち去ったものか?
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 破れ放題のガラス窓から、そっと首だけ差し入れ、中の様子を確かめてみました。
 正直ビックリとしました。
 破れ放題破れた障子と襖、垂れ下がった天井、散乱したダンボール類、とても足を踏み入れる勇気はありませんでした。
 ところが!覗き見た部屋の欄間真正面に朱色も鮮やかな神棚が残されていました。
 家財道具らしいものの存在は何一つありませんでしたが、色鮮やかな神棚が一つ。あまりにも鮮やかな現実が目の前にあって、一瞬目が眩むようでした。
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 深い草の海に埋もれて、地面に近いところから土に還って行くのでしょう。最早その車種さえ分らない車を見つけました。
 きっと、この車もこの浜の栄華盛衰を共にしたものかも知れません。
 現在この浜に残る10棟近い廃屋や作業小屋跡もそれ程先ではない、何年か後にはこの青い車を追ってゆくのでしょう。
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by ebataonnzi | 2010-12-20 14:08
我が三種の神器
 とびっきりの高級品ではないけれども、少し高価でお洒落心とセンスを備えた腕時計、万年筆、ライター、この三つを称して、サラリーマンの「三種の神器」などと呼んだ時代がありました。
 確か1960年代の中頃のことだったように思います。
 時計ならロンジンやウォルサムの中級品かそのちょっと下のものあたり、万年筆はモンブランとかパーカー、ライターならダンヒルの金張りか漆塗りのもの、そんなものだったようなような記憶があります。
 もちろん、私のような弱小労働組合の走り使いのような下っ端書記局員には、三種の神器も何も全く無縁の存在でしが…。
 このサラリーマンの三種の神器、元々は経済発展の過程で国民の生活レベルの向上を示す象徴としての生活用品を指して使われた言葉でした。
 第1次の三種の神器は、1950年代の中頃で、電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビ。第2次の三種の神器は、1960年代の中頃で、カラーテレビ、車、クーラーで、三Cなどと呼ばれたもの。 第3次は、正しく現在でしょうか?DVDレコーダー、薄型テレビ、デジタルカメラなのだそうです。
 何やら第3世代の「神器」は1世代、2世代の「神器」に比べて、小型と言うか実用的と言うか、かつての神器のようなキラキラと光り輝く、ただ持っているだけで夢が広がるような、一種の魔力を持つ品物ではないような気がします。
 なに!、第1世代の洗濯機だって、冷蔵庫だって、白黒テレビだって、みんな実用に供される製品ではないか!という反論もありそうですが、時代は1950年代中頃の話です。
 電気洗濯機にせよ電気冷蔵庫にしろ大の大人の月給まるまる2か月分か3か月分に相当する値段で白黒テレビに至っては、サラリーマンの年間所得に相当するような高価なものでしたから、夢を現実に変える「宝物」でした。
 ただ、この「神器」などと言う言葉、ご多分に漏れず購買意欲を煽るマスコミが作り出した言葉で現代の三種の神器とされるDVDレコーダーにしても薄型テレビにしてもデジカメにしても、不況下における消費拡大の起爆剤として登場したに過ぎず、もはや私たちの胸躍らせる「宝物」ではありません。
 今、私の胸の中にある「宝物」は、マスコミなどには決して登場しない、仲間内でさえ話題にもならない、密かに自分の人生の一節(ひとふし)を彩った小さな品々で、これらこそが、貧乏百姓の系譜を継承する証の「三種の神器」のようなものがあります。

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 三種の神器の一つ「ヤタの鏡」は、天照大神が天岩戸にお隠れになったときに、岩戸のすき間から天照大神を照らした鏡で、以後この鏡を天照大神自身と思って祀るようにと言う言いつけによるものだそうです。
写真のレンズは、1960年代初頭に製造されたもので「ヤタの鏡」のように被写体に宿る神の存在を写してくれることを期待しているのですが…。
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 「アメノムラクモノ剣」も三種の神器の一つで、須佐之男命がヤマタノオロチを退治した際にオロチの尾から出てきた剣で、これをもって、天皇の持つ武力の象徴としたものと言われます。
 私には武力の象徴などは何一つありませんが、せめて、ペン1本くらいは、心を支える武器にしたい願望があります。
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 三種の神器の最後は「ヤサカニノ勾玉」で、これは、太陽と月の力と恵を受けることで、幸運を呼ぶ象徴とされているそうです。
 我が安時計を勾玉になぞらえるのは恐れ多いことですが、たった1980円で買った時計が、約30年近くも我が腕で、我が昼と夜を間違えなく伝え続けてきてくれたのは、私にとっては「勾玉もの」であると思っているのですが…。
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by ebataonnzi | 2010-12-07 14:28